Introduction

はしがき

ベトナム語、文学、政治経済、歴史文化などを学習研究している人は勿論、多少ともベトナムに関心を有している人は、ベトナムには、かつて、字喃(チュウノム)という漢字借応用の文字があったことを知っている。高等学校の世界史にも字喃に関する記述がある。

本「字喃字典」は次に列挙した諸書から集録して解説を試みたものである。字喃本は現在ではすべてクオック・グウ(quoc ngữ. ローマ字体のベトナム語)にて読まれているが、字喃本と併読すれば一層的確に意味の把握ができることは言を俟たない。

○ 新刊征婦吟演音酔曲 嘉隆十四年穀月吉日 正直堂校梓

○ 征婦吟演歌

○ 金雲翻新傅 啓定癸亥孟春新刻 河內觀文堂蔵板

○ 金雲翹新傳 保大已卯年春新刊 河内福文堂蔵板

○ 金雲翹廣集傳 啓定肆年貳月吉日新刻 柳文堂蔵板

○ 翠翹傳詳註 僊田阮攸先生撰 貼雲氏註訂

○ 蓼雲仙傳 元年光緒印行 寶華閣歲板

○ 雲僊古跡新傳 保大九年冬新刊 廣盛堂蔵板

○ 嘉定城圖炤先生作者 蓼雲仙畫 壬子年西對秋月紀念

○ 李公新書 明章氏訂正 天寶樓書局出板

○ 瑞卿珠俊書集 寶華閣藏板

○ 金龍赤鳳全集 盛南棧藏板

○ 小山后演歌 金聲號新撰 寶華閣藏板

○ 大南國史演歌 維新二年戊甲秋 柳文堂蔵板

○ 南琴曲 綏理王作

○ 册縿史仍讖傳寠

○ 大南國音字彙 二巻 1895~1896

○ 大南國音漢字法釋集成 1898

○ 字典𡨸喃 1971


字喃の造字法及び解説に当り、編者独自の解釈に異論のある箇所が多々あると思われるが、それは今後の研究者各位の研究に期待したい。しかし、本書によって、字喃の独自性が再認識されれば、本書の目的のある部分は達せられるものと確信する。


字喃という我が国では、従来見かけない活字を組むことは大いなる困難を伴うにも拘らず大学書林の編集部は敢えてこの難事に挑まれたことに心から敬意と感謝の意を表する次第である。


1988年3月

竹内 与之助


解説

ベトナム人の言語は、話し言葉で、字喃クオック・グウができるまで、独自の文字がなかった。言語があれば、その言語に必要な文字があるべきなのに、ベトナム人は、長期間(約1000年)の中国統治の結果、漢字、漢文を書き言葉として使用し、ベトナム自身の文字の創造を忘れていた。しかし、その後、中国文化に深く影響を受け、漢文学の知識を有した一部上層階級(その中心人物は韓詮、陳朝初期、13世紀)の人びとが、民族意識に目覚めた時、漢字借応用の国字、即ち、字喃をつくり出した。


漢の武帝が、路博徳と五道軍を南越に派遣し、陸質及び趙の陽王を殺害させて、ベトナムは、中国の統治下に入り(紀元前112年)、呉権が、南漢を破って独立王朝を樹立した 939 年まで、千年以上も、ベトナム人は、中国の歴借の下に喘いだ。


この千年の間、必然的に、ベトナム民族は、中国文化の深い影響を受けた。中国統治時代、多くの官吏、兵士、商人を含む一般庶民、囚人たちが、ベトナム(今の北ベトナム)に送り込まれ、社会組織と風俗は、次第に中国化し、以前の母系家族制度から、父権制度を基盤とする家族構成になり、それが君主制度の基盤となって、忠孝の思想が社会秩序の中軸となった。

文字を持たない話し言葉のみのベトナム語に代って、統治行政に必要な申請書、契約書、公文書はすべて漢文で書かれていたために、ベトナム人は、好むと好まざるにかかわらず漢字の必要を強いられ、次第に、漢字のベトナム化が行われた。


そのように、漢字使用が一般化し、普及したけれども、ベトナムの人名、地名、産物の名称などは、漢字の音のそれに近いものを当てざるを得なかった。


1343年、陳裕宗の時代に立てられた石碑の中に、約20の村名が漢音で当字で書かれている。これはあくまで当字で、字喃ではないが、字喃の発想の原点となっていることは否めない。791年、当時の都護の高政平の苛斂誅求に反旗を掲げて馮興が起ち上り、唐の軍勢を撃破した。後年人びとは、彼の業績を称えて、「布蓋大王」として祀った。この布蓋(ボ・カイ)とは父(ボ)であり母(カイ)であるの意のベトナム語で、布蓋それ自体には意味はなく、音の借用である。


また,呉朝の後、十二使君の時代が一時続いて、丁朝が成立した時、国名を「大瞿越」(ダイ・コ・ヴィエット)とした。この瞿は、大きいを意味するベトナム語の当字で,大(ダイ)という漢越音と同じ意味の瞿(コ)を重ねたものである。因みに、瞿は漢字では、目を見張ると解せられる

漢字借応用のベトナム国字である字喃の造字法は次のようになる。


(イ)同音,同義の漢字を借用して、ベトナム独自の熟語としたもの。

例: 裙襖 quần áo: 衣服

仔細 tử tế : 親切な、端正な

歴事 lịch sự: 躾のよい、教養のある

(ロ) 変音、同義の語、一般に俗漢越 (Sino-Vietnamien populaire) と称せられるもの。 

例: kể 漢越音 kế (意味)計算に入れる

tiếc 漢越音 tích (意味)惜む

tiệc 漢越音 tịch (意味)宴席

nhuốm, nhuộm 漢越音 nhiễm (意味)染める

lạnh 漢越音 lãnh (意味)冷たい

gan 漢越音 can (意味)大胆な

(ハ)同音、異義の語、即ち、音のみを借用して意味に関係のないもの。

例 : một

thằng 少年、又は身分の低い者につける類別詞

cái 動物以外につける類別詞

sát 接近する

(ニ)発音が近似であるが異義の語、意味に関係なく近似音のみ借用したもの。

例: với 漢越音 bối (意味)…に対して

rằng 漢越音 lãng(意味)曰く 

phôi 漢越音 phòi (意味)色褪せる

cho 漢越音 chu(意味)与える、させる

màu, mầu 漢越音 mâu(意味)色

s 漢越音 s (意味)ぞんざいに

(ホ)ヘンが発音、ツクリが意味、又は、その反対の語。

例: 𤾓 trăm 百とlâm(意味)百

𢆥 năm nam と年(意味)年

𠄼 năm nam と五(意味)五

𦹵 cỏ 草 と cổ(意味)草

𡎦 ngồi 坐と ngoai (意味)座る

𥪝 trong long と中(意味)中

(ヘ)ヘンが漢字の一部で意味、ツクリが発音の語。 

例: 𨔈 chơi 遊と chế (意味)遊ぶ

bắt 捕 と bát (意味)捕える

đá 蹴 とđa(意味)蹴る

𫡻 quén 忘 と quyên(悁)(意味)忘れる

ôm 抱とâm (意味)抱く

(ト) ヘンが動作、状態、種類などを表わし、ツクリの全部又は 一部が発音の語。 

例: nói 口(動作)とnội(意味)話す、言う

cười 口(動作)と kỳ(意味)笑う

𨀈 bước 足(動作)とbc (意味)歩、歩く

𥇌 dòm 目(状態)とdiễm(焰)(意味)珍らしそうに見る

𣳔 dòng 水(状態)と dụng(意味)流れ

súc 木(種類)とsúc(意味)丸太

𤍊 tỏ 火(状態)とtố (意味)明るい

(チ)他の字喃の発音を借用した語。

例: 𦟣 mầm 太った→ mẫm 満腹した

𠻦 mem 噛み碎く→ mêm 酔いつぶれる

la わめく→ ra 出る、出す

𢭂 trao 手渡す → trau 磨く

𥇌 dòm 珍らしそうに見る→ dom 盛る

(リ) 発音には関係なく意味のみ借用した語。 

例: từoi 漢越音 tiên (意味)新鮮な

tẩy 漢越音 tiễn (意味)洗う

mắng 漢越音 mạ (意味)叱る

roi 漢越音 tiên (意味)鞭

đữa 漢越音 trợ (意味)箸

(ヌ)会意文字

例: 𡗶 trời 天と上(意味)天

𠳒 lời 口と天と上(意味)言葉

𠆳 trùm 人と上(意味)頭目

(ル)(ホ)(ヘ)(ト)の造字を略字化した語。

例: 𦥃 đến → 典(意味)至る

𦤾 đến → 旦 (意味)至る

𣋚 hôm → 歆(意味)日

𨔈 chơi → 制(意味)遊ぶ

𣈕𨨦𠶣 mai → 枚(意味)明日、鋤、皮肉を言う。

𢟓 tẻ → 宰 (意味)寂しい

𦓡 ma → 麻(意味)而して、しかし

以上が、字喃の造字法の概略であるが、字喃文を読む場合、筆者の誤記か、木板作りの時の職人の漢字の知識の不十分さからか、誤字が極めて多い。

サンズイとニスイの混同、冷と冷。

サンズイ、キヘン、ノギヘン、テヘンなどの混同、柏と拍。

明らかに誤字。𦓡と席、央と會、且と旦。

このように、字の造字法は、複雑、煩雑であって、書く人の漢字の知識の深さによって同一語に数文字もあり、その上、書かれた字喃を読む人の解釈によって異る。要するに、字喃は、漢字を解する人びとだけが読み書きできるという致命的な欠点があったために、十七世紀、ベトナムの地にキリスト教伝導のため渡来した宣教師が用い始めたローマ字化のクオック・グウが、字喃とくらべて余りにも修得容易であったので、二十世紀の初期、字喃は死語と化したことは誠に残念である。


字喃の普及に熱意を示した王朝は、十五世紀初期、陳王朝の王位を奪った胡季釐の胡王朝と、十八世紀後半、黎王朝を滅亡させた西山光中皇帝玩恵の西山朝である。


胡季釐が皇帝になると、早速、朝廷に字喃を採用し、四書五経を字喃に訳させて、教材に使用して、子弟を教育し、勅令、詔書などを字喃で書き、その普及に努めた。


光中皇帝の西山時代、漢文を廃止し、勅令、昭書、公文書はすべて字喃を用いると共に、科挙の試験も字喃を使用した。また、学者たちにも字喃の使用を強制し、中国の文学作品を字喃に訳させた。


この二つの王朝は、胡王朝が七年、西山王朝は十五年という短期間ではあったが、両王朝共に、自主独立の基礎を固めるために、中国の影響から離脱しようとしたのである。


ベトナム民族が、自分の文字たとえそれが漢字借応用の文字としてもで自分の言葉を表わそうとした民族意識の成果としての字喃考案の発想は評価すべきであろう。